給料増えたのに貧しくなってる — 実質賃金24ヶ月連続マイナスの異常事態を数字で暴く

はじめに — なぜ「実質賃金」に注目すべきなのか

2024年から2025年にかけて、日本の実質賃金は24ヶ月連続でマイナスを記録した。この数字は単なる統計上の異常値ではなく、日本で暮らすすべての人々の購買力が着実に蝕まれていることを示す、極めて深刻なシグナルである。

名目賃金(額面の給与)は確かに上昇している。春闘の結果を見ても、大企業を中心に賃上げ率は30年ぶりの高水準を記録した。しかし、それを上回るペースで物価が上昇しているため、実質的な購買力は低下し続けている。つまり、給与明細の数字は増えても、買えるモノやサービスの量は減っているのだ。

本記事では、厚生労働省の「毎月勤労統計調査」を中心に、実質賃金の推移を詳細に分析する。数字の裏側にある構造的な問題を紐解き、今後の見通しについても考察していきたい。

実質賃金の定義と計算方法

まず基本を押さえておこう。実質賃金とは、名目賃金を消費者物価指数(CPI)で割ったものだ。計算式は以下の通りである。

実質賃金 = 名目賃金 ÷ 消費者物価指数 × 100

例えば、名目賃金が前年比3%増加しても、物価が5%上昇していれば、実質賃金は約2%のマイナスとなる。この「差分」こそが、私たちの生活実感を最も正確に表す指標である。

厚生労働省が毎月発表する「毎月勤労統計調査」では、事業所規模5人以上の事業所を対象に、現金給与総額、所定内給与、所定外給与、特別給与などを調査している。この統計における実質賃金指数は、2020年を基準年(=100)として算出されている。

24ヶ月連続マイナスの軌跡

実質賃金のマイナスが始まったのは2022年4月である。消費者物価指数が前年同月比で2%を超え始めた時期と一致する。以下、主要な局面を振り返る。

第1フェーズ: 物価上昇の始まり(2022年4月〜9月)

この時期、実質賃金の下落幅は月あたり1〜2%程度と比較的穏やかだった。ウクライナ危機に端を発するエネルギー価格の高騰が主因であり、多くのエコノミストは「一時的なもの」と楽観視していた。しかし、円安の進行(1ドル=130円台→140円台)が輸入物価を押し上げ、食品や日用品への価格転嫁が徐々に広がり始めた。

第2フェーズ: 下落幅の拡大(2022年10月〜2023年3月)

実質賃金の前年同月比マイナスは3%を超える月も出始めた。特に2023年1月は前年同月比マイナス4.1%を記録し、リーマンショック以来の大幅な落ち込みとなった。食品の値上げラッシュが本格化し、帝国データバンクの調査では主要食品メーカー195社が2万品目以上の値上げを実施した。

第3フェーズ: 構造的問題の顕在化(2023年4月〜2024年3月)

2023年の春闘では大企業を中心に3%台の賃上げが実現したが、中小企業への波及は限定的だった。大企業と中小企業の賃金格差はむしろ拡大し、日本の労働者の約7割を占める中小企業の従業員は、物価上昇の直撃を受け続けた。

また、この時期に注目すべきは「特別給与」(ボーナス)の動向である。名目ベースではボーナスは増加傾向にあったが、物価上昇を考慮した実質ベースでは横ばいか微減。年収ベースで見ると、月例給与の実質マイナスをボーナスで補いきれない構図が鮮明になった。

第4フェーズ: 改善の兆しと限界(2024年4月〜2025年3月)

2024年の春闘では5%を超える賃上げ率が実現し、実質賃金のマイナス幅は縮小傾向に入った。しかし、プラス転換には至らず、マイナスの月が続いた。背景には、円安の再加速(1ドル=150円台の定着)と、サービス価格の上昇(外食、宿泊、交通費など)がある。

セクター別の分析 — 誰が最も打撃を受けているか

実質賃金の全体平均だけでは見えない重要な格差がある。産業別、企業規模別、雇用形態別に見ていこう。

産業別の格差

最も実質賃金の回復が早かったのは「情報通信業」と「金融・保険業」である。IT人材の需要逼迫と金利上昇による収益改善が、賃金アップを後押しした。一方、「卸売業・小売業」「宿泊業・飲食サービス業」は実質賃金の低下が長期化した。これらの業種は労働集約型で、価格転嫁が難しく、賃上げ原資を確保しにくい構造的問題を抱えている。

企業規模別の格差

従業員500人以上の大企業と、従業員5〜29人の小規模事業所では、実質賃金の推移に明確な差がある。大企業では2024年後半から実質賃金がプラスに転じた月もあったが、小規模事業所では依然としてマイナス3%前後が続いた。この格差は日本の二重構造を如実に反映している。

雇用形態別の格差

正規雇用と非正規雇用の間にも大きな差がある。非正規雇用者の実質賃金は、正規雇用者よりも下落幅が大きい。最低賃金の引き上げ(2024年に全国加重平均1,054円)は一定の下支えとなったが、物価上昇率には追いつかなかった。

国際比較 — 日本だけが特異なのか

実質賃金の低下は日本に限った現象ではない。2022年以降、世界的なインフレの中で多くの先進国が実質賃金の低下を経験した。しかし、日本の特異性は、その「回復の遅さ」にある。

アメリカでは2023年後半から実質賃金がプラスに転じた。インフレ率の低下(CPI上昇率が9%台から3%台へ)と堅調な労働市場が背景にある。イギリスも2024年にはプラスに回復した。ドイツも2024年中にプラス圏に戻った。

日本だけが24ヶ月以上のマイナスを記録した背景には、以下の構造的要因がある。

  • 賃金の硬直性: 日本の賃金決定メカニズムは年1回の春闘に依存しており、物価変動への対応が遅い
  • 円安による輸入インフレ: エネルギー・食料の輸入依存度が高く、円安が直接物価を押し上げる
  • 低い労働生産性: 生産性向上なき賃上げは企業の収益を圧迫し、持続的な賃上げを困難にする
  • 非正規雇用の多さ: 全労働者の約4割を占める非正規雇用者は、賃金交渉力が弱い

購買力崩壊の実態 — 家計への影響

実質賃金マイナス24ヶ月が家計にどのような影響を与えたか、具体的な数字で見てみよう。

総務省の「家計調査」によると、2人以上世帯の実質消費支出は、2023年から2024年にかけて前年同月比マイナスの月が続いた。特に「食料」への支出は名目では増加しているが、実質では減少。つまり、より多くのお金を払いながら、より少ない量しか購入できていない状態だ。

具体的な品目で見ると、以下のような変化が起きている。

  • : 5kgあたりの平均価格が2022年の約1,800円から2025年には約2,800円へ(約55%上昇)
  • 食パン: 1斤あたり約150円から約200円へ(約33%上昇)
  • : 10個パックが約200円から約300円へ(約50%上昇、鳥インフルの影響含む)
  • 電気代: 標準的な家庭で月額約8,000円から約12,000円へ(約50%上昇)

一方、この間の平均的な賃金上昇率は累計で10%程度。食品やエネルギーの価格上昇に全く追いつかないことは明白である。

エンゲル係数の上昇が示す「豊かさの後退」

家計支出に占める食費の割合を示す「エンゲル係数」は、経済的豊かさの指標として長く使われてきた。日本のエンゲル係数は、高度経済成長期の40%超から、2000年代には23%程度まで低下した。ところが、2022年以降、再び上昇に転じ、2025年には27%を超えた。

エンゲル係数の上昇は、食費以外の支出(教育、娯楽、貯蓄など)を圧迫していることを意味する。いわば、日本の家計は「食べること」にリソースを集中せざるを得ない状況に追い込まれている。これは経済的な豊かさの後退に他ならない。

今後の見通し — 実質賃金はプラスに転じるか

2026年春闘では、連合が6%以上の賃上げを要求する方針を掲げている。大企業を中心に高い賃上げ率が実現すれば、2026年中に実質賃金がプラスに転じる可能性はある。しかし、いくつかのリスク要因が存在する。

第一に、アメリカの金融政策の動向である。FRBの利下げペースが遅れれば、日米金利差は縮小せず、円安が継続する。第二に、中東情勢の不安定化によるエネルギー価格の変動リスク。第三に、食料品の構造的な値上がり圧力(気候変動、世界人口増加)。

最も重要なのは、中小企業への賃上げの波及である。サプライチェーン全体で適切な価格転嫁が行われなければ、中小企業は賃上げ原資を確保できず、日本全体の実質賃金回復は実現しない。政府が推進する「労務費の適切な転嫁に向けた価格交渉促進」の実効性が問われている。

まとめ — データが告げる「静かな危機」

実質賃金24ヶ月連続マイナスという数字は、日本経済の「静かな危機」を物語っている。株価は史上最高値を更新し、大企業の収益は過去最高を記録する一方で、一般的な労働者の購買力は確実に低下している。この乖離こそが、現在の日本経済を理解する上で最も重要なポイントである。

データは嘘をつかない。しかし、データの読み方を誤れば、現実を見誤る。名目賃金の上昇に歓喜するのではなく、実質賃金の動向を冷静に追い続けること。それが、経済の実態を正しく把握するための第一歩である。

次回の記事では、円安150円時代における生活コストの変化を、より詳細なデータで可視化していく。