はじめに — 歴史的転換点としての防衛費倍増
2022年12月、岸田政権は防衛力整備計画(2023〜2027年度)を閣議決定し、5年間で防衛費総額43兆円、2027年度にはGDP比2%(約11兆円)に達する防衛費の大幅増額を打ち出した。戦後日本が長く維持してきた「GDP比1%枠」からの脱却は、安全保障の観点だけでなく、経済的にも極めて大きなインパクトを持つ。
本記事では、防衛費倍増の財源問題、産業への波及効果、マクロ経済への影響を、データに基づいて分析する。防衛政策の是非は読者の判断に委ね、ここでは純粋に経済データの分析に徹する。
防衛費の推移 — GDP比1%の歴史
日本の防衛費は、1976年の三木内閣時代に「GNP比1%以内」という閣議決定がなされて以来、おおむねGDP比0.9〜1.0%の範囲で推移してきた。具体的な数字を見ると、2012年度の約4.7兆円から段階的に増加し、2023年度に約6.8兆円、2024年度に約7.9兆円、2025年度の概算要求は約8.5兆円となっている。
2027年度にGDP比2%を達成するためには、約11兆円の防衛費が必要となる。2022年度(約5.4兆円)からの増加額は約5.6兆円。これは、文部科学省の年間予算(約5.3兆円)にほぼ匹敵する規模であり、財政的なインパクトの大きさが分かる。
NATO諸国との比較
防衛費GDP比2%は、NATOが加盟国に求める目標値でもある。2024年時点のNATO加盟国の防衛費GDP比を見ると、以下のような分布となっている。
- アメリカ: 3.4%(約1兆ドル)
- イギリス: 2.3%(約720億ドル)
- フランス: 2.1%(約630億ドル)
- ドイツ: 2.0%(約800億ドル)
- 日本(2024年度): 約1.5%(約7.9兆円)
ドイツは2022年のロシアによるウクライナ侵攻を受けて1,000億ユーロの特別基金を設立し、急速に防衛費を引き上げた。日本の防衛費増額も同様の地政学的背景を持つ。
財源問題 — 誰が負担するのか
防衛費増額の最大の課題は財源だ。年間約5.6兆円の追加支出をどこから捻出するか。政府は以下の財源を組み合わせる方針を示している。
歳出改革
既存の歳出から毎年2,100億円程度を捻出する計画だ。しかし、社会保障費が毎年約5,000億円ずつ自然増する中で、他の歳出を削減する余地は限られている。結局、教育、科学技術、公共事業などの予算が圧縮される可能性が高い。
決算剰余金の活用
過去の決算剰余金(予算の使い残し)を毎年7,000億円程度活用する計画。しかし、剰余金は年によって変動が大きく、安定的な財源とは言い難い。
税外収入
外国為替資金特別会計の剰余金や、国有財産の売却収入などから毎年1,000億円程度を見込む。
増税(防衛力強化資金)
不足分は増税で賄う方針だ。法人税の付加税(税額の4〜4.5%)、たばこ税の引き上げ、復興特別所得税の一部転用が検討されている。増税の開始時期は当初2024年度以降とされたが、政治的に先送りが続いている。
この財源構成の問題点は、「安定財源」と「一時的な収入」が混在していることだ。防衛費は恒常的な支出であるにもかかわらず、決算剰余金のような不安定な財源に依存する構造は持続可能とは言えない。
マクロ経済への影響
GDP押し上げ効果
政府支出の増加は、ケインズ経済学的にはGDPを押し上げる効果がある。防衛費5.6兆円の増加がそのまま追加需要となった場合、乗数効果(政府支出の1単位増加がGDPを何単位増加させるか)を1.0〜1.5と仮定すると、GDP押し上げ効果は5.6〜8.4兆円(GDP比0.9〜1.4%)となる。
ただし、財源が増税や歳出削減の場合、民間部門からの「クラウディングアウト」(政府支出の増加が民間投資や消費を圧迫する効果)が発生し、純効果は小さくなる。特に法人税の増税は企業の投資意欲を減退させる可能性がある。
インフレへの影響
防衛費の大幅増加は、関連産業の需要を急増させ、供給制約が生じた場合にはインフレ圧力となる。特に、防衛装備品の製造に必要な特殊鋼材、電子部品、半導体などは、民間需要と競合する可能性がある。
国債への影響
防衛費増額の一部が国債発行で賄われる場合、国債残高の増加は長期金利の上昇圧力となる。日本の政府債務残高はすでにGDP比250%超と先進国中最悪であり、さらなる債務膨張は財政の持続可能性への懸念を高める。格付け機関による日本国債の格下げリスクも無視できない。
産業波及効果 — どの産業が恩恵を受けるか
防衛産業の現状
日本の防衛産業は、三菱重工業、川崎重工業、IHI、三菱電機、NEC、富士通などの大手企業を中核とする。しかし、防衛部門の売上は各社の総売上の5〜15%程度にとどまり、防衛専業の企業は少ない。防衛省と取引のある企業は約1,000社、サプライチェーン全体では約1万社に上るとされる。
装備品別の調達計画
防衛力整備計画(2023〜2027年度)の43兆円の内訳を見ると、主要な装備調達は以下の通りだ。
- スタンド・オフ防衛能力: 約5兆円(長射程ミサイル、12式地対艦誘導弾能力向上型など)
- 統合防空ミサイル防衛能力: 約3兆円(イージス・システム搭載艦、PAC-3など)
- 無人アセット防衛能力: 約1兆円(無人航空機、無人水中航走体など)
- 宇宙・サイバー・電磁波: 約1兆円
- 機動展開能力: 約2兆円(輸送機、輸送艦など)
- 持続性・強靱性: 約15兆円(弾薬確保、施設整備、維持整備費など)
恩恵を受ける産業セクター
防衛費増額の波及効果は、以下のセクターに広がると予想される。
- 重工業: 艦船、航空機、車両の製造。三菱重工、川崎重工、IHIが直接的な恩恵を受ける
- エレクトロニクス: レーダー、通信システム、サイバーセキュリティ。三菱電機、NEC、富士通
- 半導体: 防衛装備品のデジタル化に伴い、高性能半導体の需要が増加
- 建設: 自衛隊施設の強靱化(弾薬庫の地下化、滑走路の強化など)に大規模な建設投資が見込まれる
- IT・ソフトウェア: サイバー防衛、指揮通信システム、AIの軍事応用
- 素材: 特殊鋼材、複合材料、防弾素材などの需要増加
雇用への影響
防衛産業の雇用者数は直接・間接合わせて約10万人と推定される。防衛費倍増により、5年間で追加的に3〜5万人の雇用が生まれる可能性がある。ただし、防衛産業で必要とされるのは高度な技術人材であり、深刻な人手不足が制約要因となる。特にサイバーセキュリティ人材は、民間との獲得競争が激しい。
地域経済への影響
自衛隊の基地・駐屯地がある地域にとって、防衛費の増加は地域経済への直接的な恩恵をもたらす。施設整備費の増加は地元建設業者の受注増につながり、隊員の増員は地域の消費需要を押し上げる。
特に、南西防衛の強化に伴う沖縄・九州・南西諸島への防衛投資は、これらの地域の経済にとって大きなインパクトを持つ。石垣島、宮古島、与那国島への自衛隊配備の拡充は、過疎化が進む離島経済を支える側面もある。
防衛費増額のリスクとトレードオフ
財政リスク
防衛費をGDP比2%に引き上げた場合、他の政策分野(教育、科学技術、社会保障、インフラ)への支出が圧迫される可能性が高い。特に、少子化対策や教育投資が削減されれば、長期的な経済成長力を毀損するリスクがある。「安全保障」と「経済成長」のトレードオフを、社会全体でどうバランスさせるかが問われている。
産業構造の歪み
防衛産業への過度な依存は、民間産業のイノベーション力を低下させるリスクがある。アメリカでは「軍産複合体」の問題として長く議論されてきた。防衛費が拡大すると、優秀な技術者や研究者が防衛産業に集中し、民間のスタートアップやイノベーション企業への人材供給が減少する懸念がある。
デュアルユース技術の可能性
一方で、防衛投資が民間技術の発展につながる「スピンオフ効果」も期待される。インターネット、GPS、半導体などは、もともと軍事研究から生まれた技術だ。AI、量子コンピューティング、自律型ロボットなど、防衛と民間の双方に応用可能な「デュアルユース技術」への投資は、産業競争力の強化にも貢献し得る。
国際的な軍事費拡大のトレンド
日本の防衛費増額は、世界的な軍事費拡大のトレンドの中に位置づけられる。ストックホルム国際平和研究所(SIPRI)によると、2023年の世界の軍事費は約2.4兆ドルで、過去最高を記録した。主要国の動向は以下の通りだ。
- アメリカ: 約9,160億ドル(前年比2.3%増)
- 中国: 推定約2,960億ドル(前年比6%増、公式発表は約2,300億ドル)
- ロシア: 約1,090億ドル(前年比24%増)
- インド: 約836億ドル(前年比4.2%増)
- 日本: 約502億ドル(前年比11%増)
中国の軍事費は過去20年で約7倍に増加しており、この地政学的な環境変化が日本の防衛費増額の最大の背景にある。
まとめ — データで考える「安全保障と経済」
防衛費GDP比2%の実現は、年間5.6兆円の追加支出を意味し、財政、産業、雇用、地域経済に広範な影響を及ぼす。GDP押し上げ効果は限定的な一方、財源問題とトレードオフの課題は深刻だ。
重要なのは、防衛費の「額」だけでなく「使い方」だ。デュアルユース技術への戦略的投資、防衛産業のサプライチェーン強化、人材育成への投資が、安全保障と経済成長の両立を可能にする鍵となる。感情的な賛否ではなく、データに基づいた冷静な議論が求められている。


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